極真館とは

極真空手創始者大山倍達
極真空手創始者大山倍達

 極真館の目指すもの

―大山倍達の意思を継いで― 極真新時代
大山倍達総裁の意思を継いで武道空手の普及に努めるべく発足した極真空手道連盟極真館。
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盧山初雄館長
 174cm・80kg。1948年3月埼玉県生まれ。15歳で大山道場入門。第5回全日本空手道選手権大会優勝、第1回全世界空手道選手権大会準優勝。三人の師(大山倍達・澤井健一・中村日出夫)の薫陶を受け、武道の真髄を学ぶ。著書に「我が武道空手」(学習研究社)「武道のススメ」「実践極意」(気天舎)などがある。

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廣重毅
副館長
 178cm・86kg。1947年11月福岡県生まれ。24歳で極真会館総本部入門。第10回全日本空手道選手権大会4位。全日本王者・数見肇を始め、3人の世界王者など多くの強豪選手を育てた名伯楽べ。著書に「空手と意拳」(桜の花出版)「極真空手城南支部強さの秘密」(ベースボールマガジン社)などがある。

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 湖山彰夫本部長
184cm・92kg。1958年8月鳥取県生まれ。21歳で極真会館総本部入門。後に盧山道場に移籍し、盧山泊初代寮長を務める。盧山道場での武道空手の真髄を学んだ後、極真館山陰支部長として活躍。 

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岡崎寛人副本部長
180cm・93kg。1961年福島県生まれ。中学1年生で極真空手を始める。高校卒業後盧山道場に入門し内弟子となる。福島県支部時代から盧山師範の薫陶を受け、盧山空手の真髄を学んだ後、福島県支部長として活躍。また古流空手道、居合道などを学び、型の第一人者として知られている。

 極真館副本部長、同技術委員長、同福島県支部長
1961年福島県石川町に生まれる。中学1年より極真空手を始め、高校1年から盧山初雄師範(現極真館館 
極真館[天地一拳]創刊号2003年発行より
盧山初雄館長
(ろうやまはつお)―正しい稽古をしていれば 正しい精神も養われる
本物を追及した大山道場・・・・大山倍達総裁が実戦空手を旨とする大山道場を起こしたのは、本物の強さ、武道としての空手を求めたからです。これは当時、空手界全体を敵にまわすということでした。既成の空手をみんな否定したんですから。「ケンカ空手」と呼ばれ、なにかと誹謗中傷や非難を受けましたし、毎日のように道場破りが押しかけてきたものでした。しかし、その一方で大山総裁に共鳴する人達が噂を聞きつけてだんだんと集まってきました。空手だけではなく剣道、柔道などさまざまな武道家たちが日本中から、そして海外からも集まってきたんです。大山道場ではこうした猛者たちが毎日鎬を削って本当の強さを追い求めました。こういう人たちの激しいぶつかり稽古の中から、極真空手の伝統が生まれました。あの時代、あの大山道場こそが極真空手の原点なんですよ。その当時、空手の試合といえば寸止めでした。それしかなかったんです。この寸止めルールでは「空手の威力は一撃必殺」が前提となっています。しかし、一撃必殺と口でいうのは簡単ですが、これは死に物狂いで稽古しても一生かかっても到達できるかどうかという境地なんです。試合をする人すべてが死に物狂いで一撃必殺を求めているというなら分かりますが、そこまで突き詰めているとは思えなかった。できもしないことを前提にしているわけです。もやしのような男の突きがちょこんと入って「一本」と言われったって、とても納得できるもんじゃありませんよ。これは違う。これにあきたらなかった大山総裁がつくられたのが、今行なわれているフルコンタクトルールなんです。もともと山道場の稽古はなんでもありの真剣勝負でした。試合ルールでは顔面は叩かないといった制限は設けましたが、あくまでそれは競技のなかでの決まりごとに過ぎない。ですから全日本大会も第1回から5回大会くらいまでは、本来の武道性を残していましたね。現在の試合とはまるで違ったものでした。きちんと間合いをはかり、決して顔面を無防備のままにしたりしない。武道としての空手らしい攻防、きれいな動きをしていました。
原点にかえれ・・・・しかし大会も回を重ねるにつれ、いつしかルールに甘える選手が増えてきてしまった。顔面無防備のまま、近い間合いでボディを打ち合ったりする。ルールの中でしか戦えないのでは、武道としての意味はありません。武道空手を名乗っていても、実質は競技スポーツになってしまったとしかおもえません。その一方ではショー化した空手の存在があります。空手会全体がショーカラテの方向にひきずられてしまい、強ければ何をしてもいいという腕力主義に流されていることは遺憾です。こんな現状が、大山総裁が当初思い描いた武道の理想を具現しているといえるのでしょうか。今の選手たちを見ていると試合だけが目的になっているように思えてなりません。一様に個性がなく、画一的な空手をしています。試合をしていなかった大山道場の頃は組手のスタイルも一人一人違って個性的だったし、型が上手い人や腕相撲の強い人など、道場生バラエティに富んでいました。いろんな人たちがいたけれど皆、純粋に武道空手を追及するという点では一致していました。もう一度大山総裁の考えた原点、大山道場時代の理想を具現する空手に戻らなければいけません。そのためにはまずルールをかえていく必要があると考えています。顔面ありの導入です。導入にあたっては安全面を考慮する必要がありますから、すぐ全面的に変えるわけにはいかないけれども、本物の強さを求めるなら、ルールの手直しは行うべきだと思っています。具体的には掌底による顔面打ちの導入を考えています。指が目に入って失明するようなことがあっては困るので、防具の考案もこれからの課題となってきます。将来的には武道性の高い、かつ誰の目にも納得できるルールを整備していきたいものです。いずれにしても多くの意見を取り入れ、時間をかけて検討していきたいと思っています。
武道に求められる社会的使命・・・・今回の青少年大会は、他流派約70団体が参加しての盛大なものとなりました。この大会はこれで9年目になります。初期の頃こそ「ぶっ殺せ―」などという一部の心ない野次もあったりしましたが、回を重ねるうちに、師範や父兄の意識も変わってきて、そういう野次はなくなりました。武道とはどういうものかという意識が浸透してきたことはうれしいことだし、また、私たちも他流派の方々の優しさに支えられて大会を続けてこられたことに感謝しています。利害関係で集まるのでなく、いろいろな団体との交流を通じてお互いを尊敬できるというのが素晴らしい。武道というのは人を殴ったりけったりする以前に、まず相手を尊敬することが大事なのです。これをこんごも伝えていきたいと思います。このたび、多くの方々の御協力を得て財団法人極真奨学会を復活させることができました。これは私たちだけではなく、フルコンタクト空手の大同団結という意味でも大きな出来事であり、改めてその責任を噛みしめています。武道には社会的使命というものがあります。一般の競技スポーツにはない人格形成の手段としての使命です。すでに極真の名はメジャーですが、当然、そこに社会的責任が出てきます。私たちには武道の「道」の部分を広めていく責任があるんです。いまのお父さん、お母さん方が子供に何を習わせたいかとアンケートを取ると、トップに空手がきます。これは、最近の日本に欧米型の凶悪犯罪が多発して、価値観も変化し、自分の身は自分で守る必要が生じてきたからのようです。同時に護身としての面だけでなく、しつけ、他人に対する思いやりなどを身につけてほしい、と考えて子供を入門させる親御さんも多い。こういった空手に対するニーズに答えるのが我々の使命です。もちろん子供が、肉体的強さを盾に粗暴になったりしてはダメです。武道は礼に始まり礼に終わるということ、弱い者に手を差し伸べる優しさが大切なのだ、ということをしっかり教えなければいけません。最近の日本は、電車の中で女性が酔っ払いにからまれていても見て見ぬふりをする人が多い。人が殺されかかっていても知らんぷりするようでは、人間としてどうかと思います。何もそこまで命をかけて闘えとは言いません。でも腕っぷしに自信のない人でも、携帯電話を持っていれば警察に電話をかけるとか、人を呼んでくるとか、できることはあるはずなんです。スポーツは技術は教えることことはできても、人間性を高めたりするような性質のものではありません。武道の稽古は、正しく行うことで優しさや人間性が身につくものなんです。私たちも、今まで多くの問題のある子供の更生に携わってきました。武道を通じての人づくりは、空手の社会的役割です。
実社会に生きる武道の心・・・・どんな状況におかれても正しい判断を下せるのは、精神の力です。精神をも鍛えなければ、正しい稽古とは言えません。正しい稽古をしていれば、正しい精神も養われ、正しい道を歩むことができると確信しています。

廣重毅副館長武道の原点にかえり本当の空手を追及する。
我慢を教えたい
・・・・「まじめに空手をやりましょう」極真館として出発するにあたって、まずみんなに話したのはこのことです。近ごろの子供たちは痛さ、怖さ、苦しさといったものを避けて通ろうなるべく楽なところを行こうとしがちです。しかし、これでは何事にたいしても正面からまじめに取り組むということができなくなってしまいます。痛さ、苦しさは修業をしていく上での鑢(ヤスリ)のようなものだと思うんです。毎日毎日の稽古の中で楽しく汗を流しながら、時に苦しいことや痛いことを通じて今の子供に欠けている「我慢すること」、私はこれを伝えていきたいと思っていjます。空手を通じての人づくりといっても、稽古は週に1~2回なので、子供への影響力という点では、やはり毎日通う学校にはおよびません。その点では学校の先生がうらやましいですね。体罰を肯定しようというのではありませんが、子供が悪いことしたときなど、叩くべきときに叩けるというのは重要だと思います。ただ、最近の先生たちは、叩き方を知らない人が多い。だから力の加減ができず、鼓膜を破ったりして怪我をさせてしまうんです。若い先生たちも、子供のころにケンカを経験してきていないのでしょう。ケンカをしたことがないと、体のどの部位をどのぐらいの力で打てば危険か、ということも当然わからないわけです。テレビやゲームなどのバーチャルな世界では、主人公が後頭部を鉄パイプなどで殴られても「痛え」と頭を押さえながら起き上ってきますが、現実にそんな攻撃を受ければかなりの確率で死んでしまいます。しかし「後頭部を打つと危険だ」ということすら分かっていない子供や若い人が多い。驚いたことに相手が死んでも自分の人生はリセットが利くと思っているふしも見受けられるんですよ。そして「争いごとはいけません」
とうるさく言われるわりには、言葉の暴力に対しては非常に鈍感が風潮はどうでしょうか。いじめは言葉による嫌がらせから始まることが大半であることを、再認識する必要があるのではないでしょうか。言葉で言い返せない子供が相手をぶん殴って解決しようとすると、殴った子供ばかりが責められる。これは言葉でいじめた子供にも同等の責任があると私は思います。子供には、子供の世界があります。しかし、その世界は大人の言動によって左右されやすいものです。私たちがまず、うわべや結果だけで判断を下すようなことを慎まなくてはいけない。
本来の武道性を追求
極真館は武道空手を追求します。そのためには競技化してしまった従来のフルコンタクトルールに縛られない技術も検討していこうと思っています。より武道性を高めるために、顔面の攻防も考えています。こういった顔面ありの技術は、城南弥埼玉では以前よりシーズンオフの稽古としてやっていました。しかし、軽く動いているうちはいい動きをしていても、「真剣にやってごらん」と言うと、受けも何もなくなってしまい顔面攻撃だけに拘泥してしまうのです。軽くやっているときの、間合いの作り方や蹴りを含めた様ざまいい動きが、全くみられなくなってしまったのです。人間は、真剣にやったことでなければ、身につかないものだと痛感します。ですから、徐々にですが試合としての顔面攻防も考えなければ、なかなか身に付かないのかと思います。本来、武道というものはすべて真剣勝負だったわけです。やはりその原点にかえり、本当の空手を追及しなくてはいけないのです。